痛みの知らせ

2024年8月30日更新

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7月のとある日に、唾液を飲み込むたびに激痛が走り、痛みで眠れない夜がありました。ただひたすら痛みと向き合い、夜明けを待つ時間の中で頭に浮かんだのが「痛みの知らせ」という単語(フレーズ)でした。

「虫の知らせ」とは、何かよくないことが起きる前ぶれに気づいた時に使われる慣用句です。当人しかわからないものですが、昔から多くの方が体験しており、語り継がれています。

では、誰しもが体験したことがある「痛み」という感覚についてはどうでしょう。痛みを虫の知らせと同じように身体に起ころうとしている何かの前ぶれとして捉えることは的はずれでしょうか。

「すでに痛いのだから前ぶれではなく、実際に起こっているもの」と受け取ることが一般的ですが、そうではなく「今、痛みを感じることは、身体に目を向ける為の、何かの知らせなのではないか」と前向きに捉えていくのです。

これにより辛いはずの痛みは、姿形を変えることになります。故に、痛みが出た時に「この痛みさえ無くなれば、それでいい」とただその事だけに思考を奪われるのは、実にもったいない話だと思うのです。そればかりか、この偏った思考回路は、長期的に見ると心の穏やかさを失い、人間らしさを忘れ、性格さえも豹変させてしまうリスクをはらんでいます。決して大袈裟な表現ではありません。世の中を見渡せば、実際にそうなっている人を簡単に見つけられるでしょう。

近年、「痛み」という存在を一方的に悪者扱いして、不要なものとする風潮が加速している様に感じています。「痛い!」という感覚はそれだけでなく、不安や恐れといった心の動揺を伴うことが少なくありません。それを痛みだけに注視して、意図的に排除した後に残るのは、自身の身体への信頼や安心感ではなく、不信感や新たな別の痛みであったりします。

今でこそ、「痛みを取ることだけを目的とした施術はいたしません。」と謳っている私。かつて、スポーツトレーナーとして、選手をサポートしていた頃は「痛みなくプレーするために、必要な治療技術を身につけたい」と奔走していました。

炎症の有無、硬結の有無、可動域の有無、内臓関連痛の有無、そんなところばかりに目を向けて、選手の痛みの原因を推測し、治療する日々。ところが、10年ほど経った頃「これを一体いつまで続けるのだろうか」と終わりのない痛みとのやりとりに疑問が生まれたのです。さらに選手からは、「自分の身体はケアしてもらわないと動けない」と言われてしまう始末。

痛みの根底にある身体の在り方に目を向けることができていませんでした。その後、痛みの存在は、身体を守り、身体をより良い方向へと導くもの、そして必要があって存在しているものという視点に気がつき、私は痛みの後始末に追われることに終止符を打ちました。

痛みを前向きに捉える視点は、痛みが治るだけではなく、身体に対する信頼を築いたり、心を豊かにしたりという要素も含んでいます。

これまでの経験のおかげで、「痛みの知らせ」はいつも必然のタイミングと最善の形で現れるものであると確信しています。今だけではなく、その先にあるよりよい身体へと紡いでいくために。

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